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2013.08.20

盛岡整体 盛岡均整院のブログ 4

【 たんねんに いちねんに 】

  

詩はなにゆえにとうといか

なにものもうばうことのできぬせかいであるうえ

かなしい日はかなしみのみちをゆきくらし

よろこびの日はよろこびのみちをゆきくらし

たんねんにいちねんにあゆんできたゆえ

かすかなまことがみえてきた

じぶんでみつけねばたれも力をかしてくれぬ

このひとすじのたびはつらかったが

こわたれぬせかいがすこしみえてきたかたじけなさ

わたしを殺さねばこのせかいはうばえぬ

わたしのようにくるしみ

わたしのようにめぐまれてあらねばこのせかいはみえぬ

いつの日からんらんとみえてくるだろう

いつの日かうたをみることができるだろう

     

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  八木重吉

 

中学3年生のころ、偶然、本屋さんで紀野一義先生の本を手に取りました。

その本の中で取り上げられていたのがこの詩です。

そののち、八木重吉詩集「花と風と祈り」などを買い求め、読み耽ったものです。

八木重吉は、敬虔なキリスト教信者で、貧苦の生活の中、多くの詩を残した方です。

私はキリスト教を信仰はしていませんが、その詩の中の、

清廉で簡素で正直で、静かながらも、燃えるような信心の思いをあらわした世界にとても魅かれました。

紀野一義先生はいいます。

『人間、哀しい日は、哀しみの道を行き暮らすしかない。

喜びの日は一心に喜び、喜びの道を行き暮らすしかない。

それを丹念に、一念にやるしかないのである。』

『これは「たんねんに いちなんに」であって、「いちねんに たんねんに」ではない。

一つ一つの小さな事を丹念にやってきて、かなしい時にかなしみを丹念に味わいつくし、

うれしい時はうれしさを丹念に味わいつくして来た人間が一念に生きられるのである。』

『一念ということは、その中にかなしみもよろこびもみな入っているというのではない。

かなしみ一筋、よろこび一筋ということである。 凡夫にはそれしかない。それしかできないのである。』

・・・どんな人の人生にも必ずやってくる、哀しみや喜び、それらを愚直に、しっかりうけとめて生きる、

「たんねんに いちねんに」生きていくことが「まことのみち」なのでしょう。

また、紀野先生はこうもいっています。

『人生には、どうしようもない時期がある。どうしようもない人生がある。

どうしようもない時は、ほんとうにどうしようもないではないか。

どうしようもない日は、どうしようもないみちを行き暮らすよりほか、どうしようもないではないか。』

・・・私はこの「諦念」、人生に対するとらえかたを読むたび、肩のちからが抜け、救われる思いです。

「たんねんに いちねんに」・・・このことばに出逢ってから30年、

いつも、こころのどこかでこのことばが私の背中を押してくれました。

そして、いま、患者さま一人ひとりの身体を施術させていただく立場になり、さらにこのことばを繰り返し思います。

「たんねんに いちねんに」

   

                     

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