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2021.06.03
盛岡整体 盛岡均整院のブログ37
【 春を待つ手紙 】
ここでも 春を待つ
人々に逢えるでしょう
泣きたい 気持ちで
冬を越えてきた人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 吉田拓郎
久々の、本当に久々のブログとなります。
昨年初め、新型コロナウイルスが出始めてきたところからブログを更新していませんでした。
当院では感染症対策を徹底して、「たんねんにいちねんに」を心がけ、お陰様で何とか施術を続けさせていただいています。
人々は新型コロナウイルスの感染による悲劇に見舞われ、交流の機会を奪われ、経済的に追い詰められています。
そして、不安感・閉塞感、そして不信感を常に抱きながら生活してきました。
これは、自然淘汰というものなのでしょうか。
地球・環境・自然に対して支配的に破壊行為を繰り返す、人間に向けた試練なのかと考えてしまいました。
そして改めて、人は人と接して、社会をつくり、人間関係の中でこそ生きられるものだと痛感しました。
上のことばは、吉田拓郎さんの曲「春を待つ手紙」の中のものです。
もともと歌詞は、幼いころから知り、付き合ってきた男女が、時の流れとともに別れをむかえた時のものです。
そして、そのときの手紙のやり取りによる心情を表したものです。
あれから 幾とせ 友さえ嫁ぎ行き
その日を 待つように 父・母も逝きました
人間だから 求めてしまうけど
それこそ 悲しみと 知ってはいるけれど
しかし、この新型コロナウイルスが蔓延した社会となり、男女のことだけではないものに受けとめてしまいます。
親子・友人をはじめとした大切な人に対する心情と重ね合わせて歌を聴いてしまいます。
傷つくことに 慣れてはいないけど
ましてや 人など 傷つけられましょか
目に見えないウイルスというものに怯え、無症状というものに疑念を抱き、不安感・不信感を誰しもが持ってしまいます。
「人を信じる」というのは、安易なものではなくて、疑いや傷つけることの先にあるものとも考えます。
あなたは あくまで 男でいてほしい
わたしを 捨てても おなただけ捨てないで
皆が「泣きたい気持ち」で辛い「冬」の日々を過ごしています。
これらを人間に向けられた試練、というならば、試されているのは「自分だけが良ければいい」という考えでしょう。
目に見えないウイルス感染症対策としての行動をとれるかどうか、相手、すべての人を思いやれるかどうか。
そして、「思いやり」は人間同士を越えて、地球・環境・自然へと向けていくべきものなのでしょう。
ここにも 春を待つ 人々に会えるでしょう
泣きたい 気持ちで 冬を越えて来た人
いま、ワクチン接種が遅まきながら始まり、少しずつ希望の「春」へ向かい始めています。
まだまだ重症者の増加、医療機関・医療従事者の切迫、変異種等々、課題は山積みですが…
ただ、このような社会を経験した人々が、傷をなめ合うとかではなく、毅然とお互いを労わり合えればと思います。
「あっという間に社会は崩れ去るのだ」ということを経験して、それでこそ大切にするものがあります。
思いやり・愛情・慈しみ…今を大事に生き、未来に希望を伝えることです。
ここでも 春を待つ
人々に逢えるでしょう
泣きたい 気持ちで
冬を越えてきた人
2020.01.31
盛岡整体 盛岡均整院のブログ36
【 仏の眼 】
大きい 小さい
早い 遅い
強い 弱いを
優劣としてみるのが
人間の眼
個性としてみるのが
仏の眼
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 城崎温泉 温泉寺の掲示板より
兵庫県の北方、日本海に面する城崎温泉をひとり訪ねたのは、今から16年ほど前のことです。
日々暮らす地を遠く離れた旅情もあったのでしょうが、思い返しても私にとって一番の雰囲気ある温泉地だと思います。
温泉に浸かり、のんびり散策をし、そしてロープウェイに乗り、途中立ち寄ったのが「温泉寺」という寺でした。
そこの入り口の掲示板に大きく書かれていたのが上の「仏の眼」のことばでした。
とてもこころに響き、すぐにメモに書き留めました。
以前、このブログの22番目でこのことばに近いものを紹介しました。
そんかとくか 人間のものさし
うそかまことか 佛さまのものさし
相田みつをさんのことばで、「損と得」、「嘘と真」という次元の違う見方(ものさし)について書き留めました。
誰もが物事をみるときに、損なのか得なのか、利があるのか、と無意識レベルで見てしまっています。
人間が社会で生きていく内でどうしても付いてしまうフィルターのようなものです。
上題のことばもまた、競争社会の生活を過ごす中で、どうしても優劣を基準で見てしまう人間の性をあらわしているのです。
今年度から少林寺拳法総本部より「本部審判員」を委託され、全国大会の審判をさせて頂くことになりました。
少林寺拳法は「人づくりの行」であり、日々の修練を通じて自信と勇気を養い、正義感と行動力を身に着けるものです。
突いたり蹴ったり、極めたり投げたりといったものは、護身術が主体の拳技とはいえ少林寺拳法の一部に過ぎません。
大会種目は演武というもので、お互いが技を掛けその完成度や習熟度、武的要素などを評価されるものです。
皆で協力して大会を作り上げ、同志的連帯感と親睦をより一層昂めること、そして大会というより大きな枠組みのなかで、
日々の修練の成果を他と比較対照して、目標を発見するとともに、相互に技術を向上させるというのが大会の意義です。
ただ、競技・競争であり順位付けするとなると、選手はどうしても 「勝ちたい」 という相対的観点が生まれてしまいます。
審判員は、大会の意義を心にしっかり留めながら、公平無私・首尾一貫した適正な判断をしていかなければなりません。
少林寺拳法グループのトップである 「代表」 は、今年の始めから二世から三世へ、40年ぶりに交代しました。
本部審判員講習会は毎年12月に行われ、ついこの間ですが、代表交代の直前に宗夕貴二世代表のお話を頂きました。
少林寺拳法の全国大会には、演武競技の他にも弁論の部というものもあり、毎年最優秀賞の拳士の発表があります。
少林寺拳法によって自分自身が救われたという今年の最優秀弁論は、大会で発表されみんなに感銘を与えました。
審査にあたった宗夕貴元代表は、この最優秀の弁論の文章を読んだとき、涙が止まらなかったと話しました。
そして、お話しの中で宗元代表が何回も繰り返し使った言葉が 「自己肯定感」 です。
少林寺拳法を通じて 「自己肯定感」 を感じてほしい!
そして、「自己肯定感」 を拳士ひとりひとりが感じられるよう心掛けていける 「指導者」 になってほしい、と。
・・・「自己達成感」ではありません。 自己がそのままの自己であって良いという 「自己肯定感」 です。
そこには自分を、人間を優劣で見ない「眼」が必要です。
社会生活の中では、どうしても優劣で見る機会は多々あると思います。
向上心につながる場合もあるとはいえ、必要ではないことまで優劣を基準として物事を見てしまうのが人間です。
競争心は良い効果もありますが、「負」の想念も生み出します。
他人に対する妬み・嫉み、そして虚栄心など、心が弱い人ほど「負」の想いが強くなります。
それが社会生活を送る「人間」の特性なのかもしれません。
しかし、そういう「人間の眼」を持ちつつ、根本・根源的な「根っこ」の部分でそれらを個性として見る 「仏の眼」 をもつこと・・・
仏教での「諦観」にも通じるその眼、その感じ方をもてるよう心掛けていきたいものです。
少林寺拳法の教えには 「自他共楽」 という言葉があります。
互いが互いを認め、共に幸せになる、その教えの実現には、優劣で判断しない見方、価値観を考える必要があるのです。
いま、私は何か行動を起こす際に
「(それは)自他共楽か、自他共楽でないか」
と自問自答するよう心掛けています。
そして自他共楽であろうとする意志…それが人の輪のなかで広がってゆくのを感じます。
それが、常にではなくて良い、一瞬でも、ほんの僅かな時間でも「仏の眼」をもつということに繋がっていくのです。
そのような姿勢、思い、意志がいまある人生を変えていくものだと思います。
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