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2015.08.21

盛岡整体 盛岡均整院のブログ23

【 自己をならうというは、自己をわするるなり 】

        

仏道を学ぶというは、自己をならうなり

自己をならうというは、自己をわするるなり

自己をわするるというは、万法に証せらるるなり

万法に証せらるるというは、自己の心身、および侘己の心身をして脱落せしむなり

      

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 道元禅師

    

曹洞宗開祖、道元禅師(1200-1253)の 『正法眼蔵・現成公案』 の中のことばです。

    

「仏道を学ぶ」とは、釈尊の正しい教えを実践し、さとりの境地を求めることです。

そのためには、自己(自我)というものを究明しなければなりません。

しかし、自己を究明するためには自己を忘れなければならない、といいます。

そして、自己を忘れることは「万法に証せられる」ことであるといいます。

万法とは不変の法則であり、天地自然の道理であり、諸法無我(諸行無常)ということです。

そのような「法」の中に自己の存在を見出す、ということが必要なのだと思います。

そして、そのためには自己と他己・・・自分と自分と取り巻くすべてのものを「心身脱落」することであるというのです。

   

道元の興した曹洞宗は禅宗の中の一派です。

禅とは「心」という意味もあり、禅宗は「心の宗教」であるともいえます。

この掴みどころのない、変わり行く「心」、そして「自己」をどう究明するかが禅宗の道(仏道)のありかたといえるのです。

  

そして、自己を究明するには、自己を突きつめて考えぬくのということではなく、「自己を忘れることだ」と説いています。

ここでいう「自己」は、分別心からの「自我」であり、執着している己(おのれ)のことです。

そんな「自己」ですが、これを嫌悪するでもなく、無くせ、滅せよという無理難題を言っているわけでもありません。

ただ「忘れろ」と説いています。 ・・・私はこれはひとつの救いだと感じます。

それでは、どうすれば忘れることが出来るのでしょうか。

それは、「法」の中に含まれたひとつの存在としての「自己」と捉えることで、自己への執着を忘れるというのです。

    

「仏道を学ぶ」とは、座学のような、ただアタマで考えて解決するものではありません。

生きること、日々の実践があってこそです。 

道元禅師の曹洞宗でいえば、ただ坐る(ひたすら坐るではなく)という「只管打坐」によっての「心身脱落」です。

この「ただ」行ずるというのが全くもって難しい。 無為に、無目的に(何も期待せず)、自然に、です。

   

私が行っている少林寺拳法のなかにも、鎮魂行といって、教えを唱和し座禅をする時間があります。

座禅で無念無想になるかというと、そんなわけにはいきません。

姿勢を整え、呼吸を整え、静かに瞑目するからこそ、普段も起こっているが気付いていない妄想に気付くといえます。

・・・大事なのは、出てきた思いを追わないこと、こだわらないことです。

思い(妄想)を発してしまうのを、押さえつけようとか、滅しようとこだわると逆に執着になります。

思いは発するもの。 ただ、出てきた思いは手ばなしにする。 そこに心身が脱落(とつらく)する鍵があります。

思いは「自己(自我)」です。 思いをとっぱらってなおある「自己」が「法のなかの自己(真我)」です。

   

そして、その 「思いは手ばなし」 を座禅のみではなく、日々の生活でも実践することが必要でしょう。

日々生きる中に於いて、「思って思わず」「こだわってこだわらず」という執着しない生き方ができたら良いな・・・と思います。

     

昭和初期から昭和40年まで、禅の世界で第一人者として活躍された澤木興道禅師という方がおられます。

その澤木禅師の師にあたる方が、鬼瓦のようなお顔の、非常に辛辣で厳しいといわれた丘宗潬老師という方です。

   

ある日、その丘老師の部屋へある雲水が入って来て、「一大事についてお示し願います。」と言いました。

「一大事」とは、この世に生まれた因縁、その意味ということです。

「一大事じゃとな。・・・誰の一大事じゃ。」

丘老師が鬼瓦のような顔でぎょろりと睨みながら言いました。

「わ、わたくしのでございます。」

雲水は動揺しながら、やっとのことでそう言うと、

「なんじゃ、お前のか、お前一人の一大事など、どうだっていいじゃないか。 ワッ八ッハァ!」

そう笑いとばしました。 まるでシャモがヒヨコを蹴とばしたようだったといいます。

   

一見、真実を求める者にあまりにも手厳しい返事だとみえますが、日々修行を重ねている雲水の、「自分ひとり」にこだわった

問いに対しての、万法に証せられるべき「自己」を求めよという一喝であったと思います。

   

道元禅師の 『正法眼蔵・発菩提心』 のなかに、

自未得度先度他 (自分が悟りを得て救われる前に、まず他の人達を救え) という教えがあります。

そのような姿勢こそが結局、「自己を忘れる」ことにつながり、迷える己を救うことになるといえるでしょう。  

以前のブログの、「ギブ&ギブン」や「願をもち、祈り、行動する」ということもまた同様に、己が救われていくことになります。

それが、自他の区別無く、「法のなかの自己」となり心身脱落する、そのための第一歩だと思うのです。

   

自己をならうというは、自己を忘るるなり

  

   

  

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