ブログ

2014.04.20

盛岡整体 盛岡均整院のブログ15

【 花をみて花を見ず 】

   

・・・話の途中で鈴木先生は花瓶を持ちあげて「これは花瓶である」といわれた。

「しかし、そういう見方がはたして正しいであろうか。」といわれた。

これは花瓶ではないかもしれない。 わたしたちは水指(みずさし)だと思っている。

しかしこれを洩瓶(しびん)だと思う人もあるかも知れぬ。 これは酒を入れる器だと思うかも知れぬ。

その人その人の先入観によって、それは違っている。

だから、実は、物を見る時にあれは花瓶であるということを最初に考えてそして、

それを見ていたら実はそのものの本質を見ないことになるかも知れない。

物を見るということはそういう風であってはいけない、ということを言われたのである。

見た通りに見なければいけない。 鈴木先生はこう言われた。

「花瓶を花瓶と見て花瓶を見ざる態(てい)の見方が必要である」。

そのときわたしは、花瓶であって花瓶ではないというのはどうも舌をかみそうだから、

花を見て花を見ないといういい方ならちょうどふさわしいなと思って、

「花を見て花を見ず」ということを胸の中で合点したのである。

・・・人間でも同じことである。 自分の子供を見たときに、これはわたしの生んだ子であるという風に見ると、

それはさっきいった先入観にとらわれた見方だということになる。

そこにあるのは一個の人間であって、見る者とは関係がないのである。

だから、わが子をわが子と見てわが子と見ざる見方が必要だという。

そしてそういう見方をすることが般若(はんにゃ)であるといわれている。

そのために必要なのは「般若観智」であると鈴木先生は言われた。

    

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 紀野一義

     

紀野一義先生(1922-2013)のことは、何回かこのブログの中でお話しています。

いまから21年前(中学生のころ)にその著書に出逢ってから、ずっと私の生き方の指針となってくれています。

以前、東京に住んでいたころは、紀野先生主宰の仏教文化講座にも行き、その人柄にも触れさせて頂いたものです。

そして今でも、その著作の殆どを手元に置き、繰り返し拝読しています。

       

文中の「鈴木先生」とは、日本の禅文化を海外に広めた仏教学者、鈴木大拙先生(1870-1966)のことです。

紀野先生が鈴木先生の講義での言葉をいいかえたのが、「花を見て花を見ず」という言葉です。

このような見方のことを、鈴木大拙先生は「般若観智」と言いました。 

「般若」とは仏教の言葉で「(悟りを得る)智慧」という意味です。

鈴木大拙先生の著書を読むと、この般若観智(直観智)を「無分別の分別」とも定義しています。

これは、ものごとの本質をそのまま見るということです。 

先入観で、己の分別知でものごとを見ると同時に、無分別の眼でも見るということです。

   

私は今、盛岡で少林寺拳法のスポーツ少年団を開いて、子ども達の指導をしています。

修練では、技術以外でも、挨拶や礼義や態度、気合いなどを重視しており、そんな中、子ども達を叱るときもあります。

そのとき、叱る子供に対して、「自分の思い通りにならないのを、思い通りにしなければ」という気持ちで叱る(怒る)と、

そういう思いは伝わるもので、叱った子どもの表情や反応が違ってくるのがわかります。

私の注意に対してはその場では従うのですが、それをストレス(抑制)と感じるらしく、

そのあとに、別のところで他の子に当たったりしているときがあるのです。

子どもに対して「支部長の私のいうことは従うものだ」と押しつけるような考え方で接すると、

その注意自体が例え正しいことであっても、物事はうまい方へは進んでくれません。

「相手の立場に立って考える」という相互理解の道からも外れていきます。

そうではなく、こちらが率先して「楽しみ」、相手と「共にあろう」とすることで、「場」が変わり、子ども達も変わります。

空気が和み、良い同調が生まれ、活力が湧いて良い方向へと進んでいくのです。

子どもなのだから・・・決まりなのだから・・・こちらが正しいのだから・・・

毅然とすべきところは必要でありますが、変な先入観やこだわりで心が固まるとそれが皆に伝わっていきます。

注意すべき行為に対して「純粋に叱る」ことが肝要で、そこに私心が入ってはいけないのです。

・・・価値観は多様であり、求めているもの、必要としているものはひとつだけとは限りません。

「自分」という分別の基準で器を小さく狭くしていないか・・・十分に考えるべきでしょう。

そして、もちろんこれらのことは、親としての自分の子に対しても当てはまります。

「わが子をわが子と見てわが子と見ざる見方」・・・そのようなもうひとつの眼が必要なのです。

大前提として、今私たちの目の前にあるものは、因と縁によって生かされている「世界」そして「いのち」という

大切なかけがえのないものだということを忘れずにいなければいけません。

紀野先生はよく言っていました。 「生きることが救いだ」 と。

人生に現れる実相というものは分別のフィルターがかかっていては見えてこないものです。

こんなときこそ「花を見て花を見ず」・・・本質を見つめる般若観智でものごとを見るべきなのでしょう。

  

   

コメント

コメントフォーム

表示:PC