2015.04.17
【 ほとけさまのものさし 】
そんかとくか
人間のものさし
うそか
まことか
佛さまの
ものさし
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 相田みつを
相田みつをさん(1924-1991)は、1984年出版の「にんげんだもの」で広く世に知られるようになった書家です。
その独特の味わい深い書体と、仏教の教えを基とした深いことばで、現在も多くの方々がその書の愛好家となっています。
・・・私が相田みつをさんを知ったのはその「書」からではありません。
「にんげんだもの」が出る以前に、紀野一義先生の著書に取り上げられていたのが出逢いです。
” 女好きで、貧乏で、正直で ” と紹介されたその人となりに魅かれてから、その後に書を知りました。
紀野先生曰く、
『 ・・・・・この矛盾撞著の権化のような男、大飯を喰らい、女を愛し、書を愛し、子供を愛し、不正を憎み、
といってそれほどいいことをするわけでもなく、神仏を敬い、座禅し、行儀悪く、ずうずうしく、気が弱く、という
この奇妙な、魅力ある、頭の少し禿げ上がった、しかも水準以上に男前の、この相田みつをという男を、
因果なことに私は、たいへん好きなのである。 』
私が相田みつをさんの書を見る時は、いつもこの「人間くさい人柄」のイメージがベースになっています。
相田みつをさんは、前述のように ”人間くさい” のを隠さない人だからこそ、人間の弱さに愛しさを感じ、なおも、人間の弱さを
生む「欲」を超えた、ほとけさまに憧れを抱いて、それらの心情を書にあらわしていったのでしょう。
「損得で世の中を渡ってはいけません」 ・・・とは、私が昔好きだった小説の主人公のおばあさんの言葉でしたが、
人間のものさし=世の中での分別をもってしまうと、損得をやたら気にかけるものです。
「損はしたくない、得を得たい」という欲には、物欲・食欲・性欲などいろいろなものがあります。
そして、なかでも名誉欲というものは年齢を経てもいつまでも消えない手強いものです。
実行できないけれどわたしの一生の座右の銘
自分をかっこよくみせようという気持ちを捨てること みつを
社会生活を送る人間にとって、「人に好かれたい、認められたい」と思うのは大切なことです。
集団生活を送る動物なども、共に生きる仲間に嫌われることは生死に関わる事です。
そんなところからも、「人に好かれたい」というのは本能的なものであるかもしれません。
人が生きる理由たる、「自己実現」するということは、社会に、誰かに認められるということにつながります。
ただ、それも執着です。 執着は苦悩につながります。
そんなことをいっても、私も人と接したり、集団の中にいると、自分の立場を確立したいと強く思う質です。
人からあらぬ誤解を受けたり、いやなレッテルを貼られることは許し難い気持ちになります。
しかし、世の中には、誤解を受けるのを恐れず、「まこと」を生きるために自分があらぬ悪評を受けても意に介さないという
名誉欲の無い(または抜け落ちた)人が、ほとけさまに近いと思われる方がいるものです。
例えば、江戸中期の臨済禅の高僧、白隠禅師。
「500年に1人の名僧」といわれた方ですが、一時、あらぬ濡れ衣を着せられて評判を落とすのです。
それは、白隠禅師の住む村のある娘が、密通して子を孕んだ時、その父親に「白隠さまの子だ。」と言ったのです。
父親が尊敬している白隠禅師の名を出せば、ひどい仕打ちにはならないだろうと読んだのです。
父親は激怒し、子供が生まれると白隠禅師のところに赤ん坊を放り出し「覚えがあろう。」と叫んで出て行ってしまった。
白隠禅師は一言、「そうか。」と言って赤ん坊を受け取り、世話をし、赤ん坊を抱いて托鉢をするのです。
それから、白隠禅師の評判はひどく悪くなりました。 「堕落僧」と罵る人々もたくさんいました。
しかし、変わらず白隠禅師を支持する人達もいました。 そんな中赤ん坊は無事育ちました。
そしてある日、良心の呵責に耐えられなくなった娘は、父親に白隠禅師の子ではないと告白するのです。
驚いた父親は、白隠禅師のところに飛んでいき、平謝りに謝り、「赤ん坊を引き取ります」と言いました。
白隠禅師は赤ん坊を受け取ったときと同じく、静かに「そうか。」と言って赤ん坊を返したということです。
・・・白隠禅師にとっては自分の名誉が失墜することなどどうでもよかった。
ただ「目の前の赤ん坊を死なさない」という一心であったといいます。
このように、名誉欲や己の損得のものさしなどにとらわれない人も中にはいるのです。
しかし、こんな白隠禅師でも、「大悟三度、小悟数を知らず」といわれ、何度も私心にとらわれ、悟り直していったといいます。
では、白隠禅師にしてそんなにもつきまとってしまう「とらわれ」から、どうやって抜け落ちることができるのでしょう。
正しい修行や環境、善知識との出逢い、その人の生まれついての資質・・・等々いろいろなものがあることでしょう。
しかし、わたしが思うに、私心やとらわれを無くすためには、そこには『願』があったのではないか、と考えるのです。
『願』とは己の欲望のことではありません。
たとえば白隠禅師が「赤ん坊を死なせない」と思ったその一心、いのちそのものを慈しむような願い・強い思いのことです。
相田みつをさんが、ちょうど、「願」という書を著し、その解説を文にしています。
・・・私中心の欲望とはまったく別に
「核戦争など絶対に起こりませんように!」
「世の中がどうか平和でありますように!」
「山や海や河、そして土、水、空気、自然が人間の作る公害でこれ以上汚れませんように!」
と、心から念じたとき、それを「願」といいます。
どんな小さな「願」でも、心ひそかに持ちつづけていると、顔がよくなり、眼の色が深く澄んできます。
ひとりひとり自分に合った「願」を持ちましょう。
そして「一隅を照らす」人間になりたいものです。
損得のものさしを無くそう、と無理をしても欲望は際限なく現れるものです。
しかし、自分なりの『願』の思いがあれば、小さな己の欲望を覆い隠してしまうのではないでしょうか。
『願』の思いは、前回のブログの「ギブ&ギブン(与え、与えられる)」の考えにもつながります。
そして、願を持ち、祈り、行動することにより、眼の色が深く澄み、こころがより高くへと上がってゆくのだと思います。
そこに、自他を超えた思い、ほとけさまのような心境が在るのではないでしょうか。
「そんかとくか」と「うそかまことか」は次元が違います。
損得と次元が違うものをしっかり見つめることが大切なのだと思います。
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