2014.11.15
【 相手を攻撃する原因とは 】
他人が自分を攻撃していると感じたとき、私たちはたいてい、防御しなければという気持ちになり、
直接的にせよ間接的にせよ、反撃する方法を見つけようとします。
攻撃はつねに、怖れと罪悪感から生じるものです。
まず何らかの脅威を感じ、次に、「相手を弱体化させてでも、自分の強さを思い知らせてやりたい」と考えなければ、
誰も攻撃という行為に出たりしません。
つまり、攻撃とは実のところ防御なのです。
罪の意識と怖れから目をそむけるための防御がすべてそうであるように、
攻撃もまた問題を問題のままでとどめてしまいます。
攻撃すれば自分の望むものが得られるという考えに、たいていの人はしがみついています。
攻撃も防御も心のやすらぎをもたらしはしないということを、忘れているようです。
葛藤ではなく、やすらぎを経験するためには、ものの見方を変えることが必要です。
相手のことを、自分を攻撃しているのだと見るのではなく、怖れを感じているのだと見るのです。
私たちはつねに、愛か怖れのどちらかを表現しています。
怖れの正体は救いを求める声であり、言いかえれば、愛を求める声です。
だとすれば、やすらぎを経験するために必要なのは、ものの見方や感じ方を決める権利は自分にあるのだと、
自覚することだということになります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ジェラルド・G・ジャンボルスキー
ジェラルド・G・ジャンボルスキー氏は国際的に有名なアメリカの精神医学者です。
上に引用した 『愛とは、怖れを手ばなすこと』 をはじめ、『ゆるすということ』 『愛と癒し』 など多くの著書があります。
いつ、どこにでも ” 攻撃的な人” と言われる人間はいるものです。
また、私も含め殆どの人が、何かしらの条件が重なることで、” 攻撃の心” をもってしまうものです。
ジャンボルスキー氏は、その” 攻撃の心” を、怖れと罪悪感から起きているといいます。
そして、攻撃とは実は防御のことであり、そのどちらもやすらぎをもたらさないとしています。
ベストセラー 『鏡の法則』 の著者で有名な野口嘉則さんも同じようなことを述べています。
著書 『3つの真実』 は、『鏡の法則』 のように物語の形で教えを説いていく内容です。
そこでは、「怒り」というのは二次的な感情で、怒りが湧いてくる直前にあった感情を一次的な感情と述べています。
あることによって、不安であったり、惨めさやさびしさ、悲しさなどの感情が湧いたとき、その感情を感じることを「怖れ」、
そのようなもともとの感情を、「怒り」という二次的感情でごまかしているのだといいます。
感受性豊かな、幼いころを思い返すと、不安や惨めさ・さびしさ・悲しさなどの気持ちを、皆が経験していると思います。
そしてその経験から、それを嫌がり避けようとしたり、その感情を直視しないようにしようという思いはよくわかります。
しかし、いくら「怒り」などで一時的感情から目をそらしたとしても、抑圧された不安や惨めさなどの感情は解放されずに
そのまま残っているのだ、と野口さんはいいます。
だから、怒りが湧いてきたときには、それが怖れからきていることを思い出し、「自分は今、怖れているんだ」と認めることが
大事だといいます。 ・・・認めたその時点で怒りに支配されなくなるのだ、と。
さらにその後、自分を安心させる言葉を自分自身にささやきかけてやることが大切だそうです。
ジャンボルスキー氏も野口さんも「攻撃」や「怒り」のおおもとを指摘しています。
それは人間の ” 弱い心” が生むものです。
” 弱い心” は、わたしもあなたも皆が持っているものです。
だから、” 弱い心” をごまかさず直視できることが、” 強い” ことなのでしょう。
それは、攻撃や防御というものからかけ離れた、 ” やわらかい強さ” とでもいうものです。
また、たとえもし自分が他人から納得出来ないような「攻撃」や「怒り」をうけたとしても、
その人の怒りの原因は「怖れ」や「罪悪感」からだと思えることで、
その人に対して多少なりとも「ゆるす」気持ちになれ、「やすらぎ」を得ることができるのではないでしょうか。
理不尽な攻撃や怒りを向けるひとは「不安や怖れでいっぱいになっているかわいそうな人」と見るのです。
そして、ジャンボルスキー氏のいうように、私たちが常に「愛」か「怖れ」のどちらかを表現しているとしたならば、
生きているうちはなるべく「怖れ」を捨て、「愛」を表現し続けて、皆と仲良くやすらぎの中で生きていきたいものです。
長いようで短い人生、一瞬一瞬を満足して生きたいならば、何を捨て何を大切にすべきかは自ずとわかるはずです。
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