2017.07.10
【 「仁」と「義」の精神 】
少年たちの心から消えてしまったのは「仁」と「義」の精神であろう。
「仁」は他者に対する思いやり、いつくしみの心のことであって、これは高学歴社会の過当競争の中で死語と化した。
おそらく「仁」は戦後自由主義と相容れなかったのであろう。
今日では「福祉」とか「ボランティア」という形で社会に組み入れるほかはなくなってしまった。
孟子の口癖を借りればまさに「哀しい哉」である。
「義」もまた、法治国家の名のもとに死語と化した。
法律を犯せば悪いやつで、法に触れなければ悪いことでも悪くはないのである。
「義民」た「義賊」の存在を子供らは知らず、佐藤宗吾も国定忠治の名も、青少年は知らぬのであろう。 「哀しい哉」である。
かの孟子は、「仁は人の心なり、義は人の路なり」と説いた。
「仁」は人だろもが持っている人間本来の心であり、「義」は人だれしもが歩み従うべき正道である、というほどの意味である。
また、「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」とも説いた。
「仁」は人間にとって最も安らかな居場所なのである。
仁の精神を制度化し、義の精神を法律に委ねる愚を、私たちはこの五十年間にわたって続けてきたのではあるまいか。
その愚行はすでに三十年前、「刃物を持たない運動」や「小さな親切運動」という形で提示されていたのである。
「仁」と「義」とを知ってさえおれば、少年は本能の赴くままにナイフを持ち歩きこそすれ、
決して他人にその刃を向けることはなかったはずである。
また大学生たちはか弱い女性とともに飲みかつ唄い、性的妄想を逞しうしたとしても、
よもや輪姦には及ばなかったはずなのである。
今日までわが国が世界に珍しいほどの治安の良さを維持してきたのは、儒教世代が社会を牽引していたからであろう。
だが、文字通り仁義をわきまえぬ戦後世代にバトンが手渡されれば、このさきどのような世の中になるかは明白である。
いくつかの事件はその予兆のような気がしてならない。
「仁」と「義」とは、数々の社会的モラルを人の心のうちに水のごとく湛える器である。
この精神をないがしろにして何を教育しても、個人のためにこそなれ社会にとっては無益であろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 浅田次郎
浅田次郎さんは、言わずと知れた人気作家で、直木賞をはじめ数々の賞も手にしている方です。
私も18年前に「天国からの100マイル」を手にして以来、浅田さんの殆どの作品を読ませて頂いています。
2011年から現在まで日本ペンクラブの会長も務められていて、エッセイなどで社会問題などにも持論を展開しています。
つい先日、盛岡で「人生いかに学ぶか」と題して講演をされ、初めて生で浅田さんのお話を聞かせていただきました。
スマホ・メールやゲームの弊害、想像力の喪失の危惧、活字から知識を得る大きさ、そして儒教の「孝」の大切さなどを説き、
漢詩との出会いとその美しさを語り、陶淵明などの詩を取り上げ、中国の科挙制度のことまで触れてとても楽しくためになる
すてきな時間をいただきました。
それからどうしたのだろうと、おこんは目を瞑ったまま考えた。
襟巻の中で顔を倒すと、あの夜と同じ赤い月が、おぼろな記憶を喚び醒ました。
あれこれ思い出すより先に、ほろほろと涙がこぼれた。
おにいさんはずっと、手をつないでいてくれた。 汽車を降りてからは、てるてる坊主のようにマントを着せられた。
新橋の改札には、こんなときでも見知らぬ父と母が待っているような気がした。
だからおにいさんの、「おっかさんは」という問いが切なくて、泣いてしまった。
「そんなの、いないやい」
「じゃあ、おとっつぁんは」
「そんなのも、いないやい」
おにいさんは目の高さに屈みこんで、おこんを抱きしめてくれた。
「もう、うっちゃってっていいよ」
「そうはいくか」
「みんな、知らん顔だよ。だからおにいさんも、知らん顔をしてよ。石ころみたいなもんなんだから」
「そんなふうに言うもんじゃあねえよ」
まるでめぐりあった兄と妹のように、二人はしばらくそうしていた。
「どうして行かないの」
おにいさんの胸を押して言った。 どうしても人の情けを信じようとしない、野良猫のようだった。
「俺も石ころだから、人間みてえに勝手には歩けねえのさ」
それからおにいさんは、とても悲しい話をした。 十年前に万世橋の駅で、親に捨てられたのだ、と。
たまたま拾ってくれた人に手品を教わって、今はその芸で食べているのだ、と。
( 『天切り松闇がたり 月光価千金』 )
浅田次郎さんの作品に出てくる人は、みな生きることが下手で不器用です。
それは、何よりも「義」を重んじ、「情」に流され、他人の痛みを知る「仁」を持った人たちだからこそです。
要領よく上手く立ち回れず、思い悩み、進退窮まったり挫折したりします。
しかし、いちばん大切なものを持っている人たちです。
君看双眼色、不語似無語 (君みよ双眼のいろ、語らざれば憂いなきに似たり)
この句は白隠禅師の言葉といわれています。
語れないほどの悲しみ(哀しみ)を抱いている人・・・黙っているがよく見るとその双眼は澄み輝いているのだ・・・
浅田さんの作品に出てくる人は、まさにそれです。
弱った人、困った人に手を差し伸べる、優しい人。
「人を憂う」と書いて優しさになります。
憂うだけ、人の悲しみが分かるだけ、自分も深い悲しみを経験しその胸に抱いているのです。
ただ、それをあからさまにはせず、陰で涙を流し、じっと堪えながら不義を憎み、そして他人をいたわって生きるのです。
そんな人だから、その眼は澄み輝き、そして優しい眼となるのでしょう。
「義」を重んじ「仁」に生きる人とはそういう眼をもった人なのだなと思います。
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