2017.01.18
【 川の流れのように 】
でこぼこ道や
曲がりくねった道
地図さえない それもまた人生
ああ 川の流れのように ゆるやかに
いくつも時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく
空が黄昏に
染まるだけ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 秋元康
昭和の名曲、「川の流れのように」は今も多くの人が愛し続けている、心に響く歌です。
秋元康さんの詩を、美空ひばりさんが晩年に自分の人生に照らし合わせて、大切に大切に歌い続けた曲です。
人生を、生きた時代を、「川の流れ」に例えています。
「ゆく河の水は絶えずして しかももとの水にあらず (方丈記)」
上の方丈記の冒頭の言葉のように、人間は川の流れの如く、決して取り戻せない流れ続けている時の中にいます。
そのような時の中で・・・人間の力ではどうしようもない運命のような「ちから」に動かされ、流されながらも、なお真剣に生き、
精一杯生きた自分を、人間を愛しむ歌と感じます。
・・・前回のブログでお話したのですが、昨年秋に少林寺拳法の全国大会出場のため、大分県別府に行って来ました。
九州は14年前に福岡県の博多、佐賀の唐津、長崎県の長崎市内と平戸周辺を一人で旅行して以来でした。
(その時は松浦鉄道に乗って、松浦市・平戸市をどうしても訪ねてみたかったのです)
今回もひとりで九州へ渡った私は、大会終了後に九州全県歴訪を達成しようと弾丸ツアーを敢行しました。
別府からまず本州・山口へ渡り、下関を歩いて、ふぐを食べ、再び九州に上陸し門司港へ。
小倉に宿泊してから翌日、博多市内⇒熊本市⇒鹿児島市(フェリーで桜島)⇒宮崎市と訪れました。
宮崎泊をし、最終日はレンタカーで日南海岸を周り、宮崎空港から飛行機で帰路につきました。
私は、家族や友人と行く旅行も好きで、旅行プランもタイムスケジュールまで細かく企画・実行するのが大好きなのですが、
一人旅はそれ以上に魅力的で大好きです。
ひとり日常生活から離れ、遠くから普段の己の生活を俯瞰して思い、知らない街で自己を見つめ、自問自答を繰り返す・・・
知らない街だからこそ、知らず知らずに歩んできた我が道を振り返り、知らない街だからこそ、「独り」である自分という存在を
強く感じ、「川の流れ」のように生きている己を静かに見つめることができるのだと思います。
そんな時間は、脳がリフレッシュされ、座禅行や内観行で得るものに近いものを自分にもたらしてくれます。
・・・九州の旅は行く先々がみな素晴らしいものでしたが、やはり一番印象深いのはずっと行きたかった熊本城です。
お城好きな私は全国多くの城を見てきましたが、行きたくてもなかなか行けなかったのがこの熊本城でした。
2016年3月19日にNHK「ブラタモリ」で「熊本城」が放映され、4月2日には同番組で「水の国・熊本」が放映されました。
大好きな番組で思い続けていた熊本が紹介され、いよいよ念願の熊本城が見れると私の中で最高潮に盛り上がったとき、
4月14日・・・あの熊本・大分の震災が起こりました。
人々や民家に大きな被害が出て、熊本城も全体の復旧まで20年はかかるといわれる大ダメージを受けました。
しかし、それ故に必ず熊本に行かなくては!と決意を新たにしたものでした。
熊本に着いた時、まず熊本城となりの熊本市役所の14階展望ロビーに行き、熊本城全景を見ました。
建物は倒壊し、石垣は崩れ、痛々しい光景を目の当たりにしました。
また、市役所には被災者支援の受付が設けられていて、多くの人が集まっていて身につまされました。
市役所を出て、熊本城内へ。
囲いやロープが張られ、遠くからしか見学出来ませんでしたが、広大な土地の中に聳え立つ三つの天守や、多くの櫓や門、
そして「武者返し」で有名な石垣と、難攻不落の城として名高い城内の豪壮雄大な構造に圧倒されました。
しばらく歩き、天守閣が現在一番近くで見れるという加藤神社へ。
そこから見上げる熊本城天守は、見事なものでした。
瓦が落ち、痛々しい姿で・・・いや、それだからこそ、傷つきながらも雄々しく立つ姿に、その格好良さに見とれました。
傷んでいるからこその意思をもって存在するような迫力があり、素晴らしい益荒男ぶりを感じて動けなくなりました。
安土桃山時代から江戸時代まで戦国の世にあり、滅んだかに思えたものが、熊本県民のこころの支えとして「生きて」いる。
今度は震災の復興のシンボルとして人々はその雄姿を見続けています。
そして熊本城は、多くの人々の生き死にを・・・愛し合い憎しみ合い、助け合い争い合うという「人間の営み」を、時代を超えて
静かにずっと見守り続けてきて、これからもまた変わらずそこに立ち続け、見てゆくのでしょう。
それは、川の流れが、いつまでも変わらずそこに在り、ゆったりと、美しく静かに流れ続けているのと同じように、です。
人々の「思い」も、「喜び」も、「悲しみ」も、「男の愛」も、「女の愛」も、たとえどんなに大切に守りつづけているものでさえも、
歳月の流れの中に取り込まれ、消え去ってゆきます。
そして川は、時代を超えて、歳月の流れのままに、いつまでも変わらずに流れているのです。
何が起ころうとも、何が過ぎようと、何事もなかったかの如く、ただゆるやかに、ただ流れ続けています。
そして・・・人間も数ある生命の中の一つと見ると、そのような自然に取り込まれた一部なのだと改めて思ってしまいます。
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