2014.09.12
【 シリウスが見える 】
見えていたものが嘘のように見えなくなってくると
シリウスが見える
空なら川も流れていように
川ならば水草も映っていように
天ならどほっと暗いばかり
暗い闇の闇のなかの
残された一つのもののように
シリウスが見える
残されたもののたしかさを信じると
ひとりを目覚めていると
シリウスが見える
ただしいことはやはりただしいのだと
叫ぶことになぜ苦しんだりするのか
シリウスが見えてくると
私のなかにもなお
シリウスがあるのだと思う
始めて光を見た時のおののきで
シリウスが見える
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・村上昭夫
村上昭夫さん(1927-1968)は岩手出身、盛岡に生きた詩人です。
彼の詩集「動物哀歌」は絶版・再出版を繰り返し、そして多くの人に感銘を与えました。
シリウスとはおおいぬ座α星、中国名で「天狼星」、全天で最も明るいといわれる恒星です。
暗い暗い闇の中の、強い光のことです。
私たちはこの世の現象を、自身のフィルターを通して見ています。
見たものが脳へと伝わって認識するということは、多分に自己の経験による思い込みや錯覚が含まれているものなのです。
しかし、そんな自己の思い、執着から、すとんと覚める瞬間というのもあるのです。
暗い闇とはこの世の「無明」、明るくないことであり、「迷い」のことです。
無智(無知ではない)による真実の見えていないこと、妄執にとらわれていることです。
「ただしいことはやはりただしいのだ」と叫ぶことに苦しむのもまた「無明」です。
そんな「無明」の闇のなかで「たしかなこと」を見つけた時、光が、その輝きが目に映るのです。
見えていたものが見えなくなり、見えなかったものが見えてくるのだと思います。
「無明」による迷いや苦しみというものは、いろいろな原因があるものですが、そのすべてが「自分」の問題ともいえます。
「自分」という器の中でのみ、大きな嵐が渦舞いているのであり、自分の外の世界は何の変わりもない。
「一大事」だと思っていることは、「自分の一大事」であり、世界や自然界にとっては「なんともない」ことであるのです。
・・・雨の日に飛行機に乗った人はおわかりだと思いますが、雨の中を離陸し、雨雲の中に入ってさらに上空へと飛行します。
そしてその雨雲の上に突き抜けたとき、一瞬で別世界の、まぶしく果てしない光と青空の景色に出会い驚きます。
「無明」の苦しみもこれに似ています。 雨雲の下にいると、その雲の上には青空が広がっていることなど気付かない。
雨雲の下の世界だけが自分をとりまく全てだと思い、行き詰まり、苦しみから抜け出せない。
しかし、どんな黒々とした雨雲の上にも必ず、ひかり輝く真っ青な空は存在しています。
たとえ見えなくとも、大地を覆う雲の先には青空が在り、そしてさらにその先には無限の宇宙がひろがっているのです。
・・・そうはいっても、雨雲の下にいれば雨に当たってしまう、というのも確かなことです。
観念論だけで問題が解決するわけではなく、この世には様々な苦しみにあふれ、現実として私達にかかってくるものです。
しかし、自分の内に籠り、無明の闇の中にのみとらわれているならば、外に輝きの世界があることも分かりません。
意識を雲の上の青空に飛ばすこと、自分の外に向けることで、「小さな自分」から離れることが出来るはずです。
抜け出せない闇の中から、希望の光が現れ、元気を取り戻せるはずです。
「私のなかにもなおシリウスがあるのだと思う」
・・・そして、光はわたしの中にもあると感じるのではないでしょうか。
あるいは自分も光のなかの一部だと思えるようになるかもしれません。
雨雲をはるかに包む青空があり、宇宙があるように、小さな自分を大きく包む、そんなあたたかい光です。
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