2014.07.27
【 それでも人生にイエスと言う 】
大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。
それは、ものごとの考え方を180度転換することです。
その転換を遂行してからはもう、「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。
いまではもう、「人生は私に何を期待しているか」と問うだけです。
人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
ここでまたおわかりいただけたでしょう。
私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。
つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは” 問われている” 存在なのです。
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、
答えを出さなければならない存在なのです。
こう考えるとまた、おそれるものはもうなにもありません。
どのような未来もこわくはありません。
未来がないように思われても、こわくはありません。
もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。
すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。
その際、どんな未来が私たちを待ちうけているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ V.E.フランクル
V.E.フランクル(1905-1997)は、オーストリア出身の精神科医・心理学者です。
自身の3年間にも及ぶ、ナチスの強制収容所の体験をもとに著した 『夜と霧』 は世界中で読まれています。
『夜と霧』にも「人生がなにをわれわれから期待しているか」という言葉が出てきますが、上の言葉は、
その後出版され、さらに詳しくその事を述べた 『それでも人生にイエスと言う』 という著書からのものです。
・・・「生きる意味」や「生まれてきた意味」については、古今東西、さまざまな考えがあります。
ニヒリズムのように、特に客観的な意味などない、というもの。
(来世があるという前提で)この世で魂を磨くためだというもの。
普遍的な「意味」はなく、それぞれが個々に人生の意味(目的)をみつけて(作って)生きるべきだ、というもの。
「生きること」自体が意味であり目的であるというもの。
人生は人間の理解を超えたところでの「意味」をもっているというもの、等々・・・
フランクルは、私たち(人間)が生きる意味を問うのではなく、人生が生きる意味を私たちに問うている、といいます。
この主体と客体の転換により、「生きる意味」という難題を問う苦しみや怖れから解放されているのです。
自力から他力への転換・・・人生に対して帰依をする、とでもいうのでしょうか。
自我の欲を忘れ、期待されることに対して自己を投げ出し、信じ、尽くす喜びというのは大きな自己実現といえます。
また、「他人の喜びが自分の喜び」となれば、私だけの、小さな「人生の意味」がそこから大きく広がることでしょう。
フランクルが強制収容所の極限状態で垣間見た、そんな中でも他人を思いやる人間の「善」というものが、
「人生」を肯定し、「人生」に帰依し、「人生」が出す仕事に仕えるという喜びを悟るに至ったのでしょうか。
それは、人生に「囚われる」のではなく、楽しみながら積極的に「人生」に取り組む姿勢だと思います。
物欲の中にある自我(小我)から、「人生に仕える」という人生態度をもつ自己(”超自己”とでもいうもの)への転換、
そんな立場から、高らかに「イエス」と肯定する姿を想像すると、すがすがしささえ覚えます。
「生きる意味」があるのかもしれない、「生きる意味」をもたなくてはいけないと思い悩むのは、苦しいものです。
それにより、今の自己を否定したり、不自然に(無理に)禁欲したりしなければならないとしたら・・・
そしてその考えがもし間違っていたとしたら、人生を終えるときは後悔ばかり残るでしょう。
以前、「幸せ」について述べたときのように、「幸せ」を求めるのに拘りすぎて「不幸」になる、というのに似ています。
こだわらず 他人と比べず 無理に答えを出そうとせずに
自己も大事に 他人も大事に それぞれの人生もそのつながりもまた大事に
もっとおおらかに、こだわりを捨てて、「中道」を歩むことでしょう。
そして、自己の素直な心に問いかけ、「人生」や「縁」のような外からの呼びかけにまっすぐ応えて、
未来を怖れず、「いま」をしっかり生きることです。
人生に躓き、悩み苦しんでるとき、このような考え方はひとつの救いになると思います。
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