2014.01.16
【 これが私の故里だ 】
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天氣だ
緣の下では蜘蛛の巣が
心細さうに揺れてゐる
山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天氣だ
路傍(みちばた)の草影が
あどけない愁(かなし)みをする
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと
年増婦(としま)の低い聲(こえ)もする
ああ おまへはなにをして來たのだと・・・・・
吹き來る風が私に云ふ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中原中也
中原中也作 「帰郷」です。
「汚れつちまつた悲しみに・・・・」や「一つのメルヘン」「春日狂想」などとともに中也の著名な詩のひとつです。
この詩は、昭和3年に、中也が東京から故郷の山口県の湯田温泉町へ帰郷した時につくられたものです。
ここでの「故里」は、純粋に「故郷・山口湯田」を指すというより、中也の恋焦がれる女性を表している、という解釈が強いです。
・・・・・「故里(ふるさと)」というのは、「懐かしい」ものであり、「帰る(帰れる)」ところ、というイメージがあります。
それは単なる「場所」だけではなく、出逢った「人」でもあり、ある場面の「風景」や、その時の「思い」なども含まれます。
中也のように、女性を「故里」と思うのも自然であり、一人ひとりの心に、様々な、懐かしい「故里」があると思います。
私も18歳から東京に出て、9年半を過ごしましたが、遠く離れて故郷をみつめ、知らず知らず「故里」に支えられてきました。
私にとっての「故里」は、少年時代を過ごした家であり、家族であり、親しい友人達であり、いつも歩いた街並みであり、
毎日通い過ごした校舎であり、北上川のゆったりとした流れであり、顔をあげればいつも見える雄大な岩手山の姿です。
そして、たまに帰郷すると、盛岡の、東京とは違う ”すとーん” と落ち着いた、懐かしい空気を体で感じ、安心したものです。
新年の始め、母校の高校の、卒業以来の大きな同窓会が東日本ホテルで行われました。
それこそ、ほぼ28年ぶりに会う同窓生もかなりいて、時の流れを感じました。
高校時代に「応援団長」だった私は、久しぶりに「団長」に戻って、当時の気持ちを思い出していました。
・・・・・当時の応援団は、今では考えられない程に厳しいものでした。
だから、応援団になって1年生の頃は、毎日が暗澹たる思いで過ごしていたものです。
必ず学級から2名選出しなければならず、団を辞めるときは代わりの人間を決めてこなければ辞められませんでした。
応援団の練習が辛すぎて、半年でクラスの男子の半分以上が入れ替わり続けたところもあるくらいでした。
しかし、そんな精神的にも肉体的にも苦しくて、闇のような日々を送るなかでも、
同じ1年生の団員同士で、笑い合う瞬間もあり、勇気づけられる時もありました。
先輩たちに激しく責められたり、厳しい練習で追い詰められた時の姿を、1年生同士が見せ合う環境の中で、
相手の奥底の、性根のところが分かり合えて、お互いに深い絆が生まれました。
そして、2年生、3年生となり、団を引っ張る立場に立って、さらに絆は強くなっていくと感じました。
振り返ると、その当時は、一所懸命に夢中に過ごしていて、それ故にとても輝いていた、と懐かしく思い出します。
・・・・・その時から早や30年近くの時が経ちました。
これでも、同年代の人達と比べてみても、人並み以上の苦労をしてきたと思います。
そんな今までの様々な困難にも、心折れず逃げ出さずやってこれたのは、この高校時代の日々があったからです。
私の心の支えであり、心の故里は、そんな高校時代をはじめとする「若い頃の懸命な日々」であるともいえます。
そして、今の自分の姿を、自分の生きざまを、「おまえは何をして来たのだ」と問いかけるべきものも、
私にとっては、その「若き日々」のひとつひとつであり、「当時の自分自身」であるのです。
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